2020年11月3日

麻溝台キリスト教会案内

  

   歴  史

私たちの教会は、世田谷区にあります朝顔キリスト教会の援助の下、1973年7月1日に南台キリスト教会として、国立相模原病院の前にある南台薬局の二階での集会からスタート致しました。その後、5年ほどした1978年に、広い広場を有している麻溝台自治会館の隣に移って参りました。この移転に伴って、麻溝台キリスト教会と名称を変更いたしました。

  現  在

現在の教会堂は何度かの増改築を経ていますが、2019年に、高齢者の方々や車いすを利用されている方々とも一緒に礼拝する教会として、エレベーターも設置し、トイレなども新たにいたしました。それは、どんな人とも、一緒に神を礼拝し、そして互いに愛し、互いに愛される、そんな教会を目指す私達の願いからでもあります。私たちの教会は、現在、決して大人数の教会ではありませんが、聖書の語る真の教会を目指しています。一人ひとりが神に愛されている事をしっかりと受け止めながら、神を愛し、互いを愛し、また私たちの知らない方々を愛する教会となりたいと思っています。

  目  標

そのために、礼拝を重んじるとともに、聖書を学ぶことを大事にしています。皆さん、ご存知の通り、聖書は世界のベスト・セラーです。なぜ、そのように世界中で読まれるかと言いますと、聖書は、永遠の真理、神の言葉だからです。この神の言葉である聖書を読み、聞き、学び、そしてそれを日常生活の中で実践することを目指しています。あのアブラハム・リンカーンが「聖書は神が人類に与えて下さった最大の賜物である」と言いましたが、私たちも同じ思いでいます。その聖書の中から、イエス・キリストというお方をぜひ、皆さんにも知って頂きたいと思っています。私達の罪の身代りに、十字架に架って死なれ、三日目に死からよみがえられて、今も生きておられ、私たちを救い、助け、導いて下さるこのお方をぜひ知って頂きたいと思っています。この機会に、ぜひ、一度、教会に来ていただければ幸いです。私達のホーム・ページを開いて下さって感謝します。神の祝福を祈っています。


      

牧師 本多泰治

  牧師の独り言コーナー

   このコーナーはその都度、牧師に与えられた御言葉の解説を掲載いたします。
   主の導きにより時々文章の更新が計画されております。

麻溝台キリスト教会 月報「まな」 (7月号) 
言語化

「はっきりと父について伝える時が来ます」

(ヨハネ16:25)

先日、同じことを、弟子訓練を受けている方々から聞いた。「言語化」 この言葉を皆さんは、よく使いますか。あるいは聞きますか。会社や学校で発表があったりする場合を除いて、普段の生活の中で、めったに使ったり、聞かないと思いますが、最近、二人の方から聞いたのです。しかも弟子訓練を受けている方々からです。言語化、とはどういうことでしょうか。例えば、自分の考えや思いを、自分の言葉で、相手にわかるように話すことが出来る事です。私自身が、かつて言語化できない人間でした。牧師なのに、伝えたいことを、明確に伝えられずにいました。これは苦しいことです。社会の中には、このような言語化できるトレーニングなるものがあります。トレーニングによって、言語化、自分の覆っていることを、相手に、分かり易く伝えられるようになるのでしょうか。

しかし、自分自身が弟子訓練を受け、また弟子訓練を一緒にしていくうちに、受講している人たちの中に変化が見えるようになります。どんな変化かというと、自分の中にある思い、あるいは信仰を明確に語り伝えられるようになる、という変化です。今まで、何か、もやもやして考えがまとまらず、どう表現していいのか、伝えたいのか、うまく言葉にできないでいたことが、自分の言葉で表現できるようになる、そんな変化です。もやもやしていると、話ももやもやして、長々と話して、相手にわかってもらおうともがくことが多かった人が、端的に、確信をもって、短く、分かり易い言葉で伝えられるようになる、すなわち言語化できるようになってくる。6月16日の、奥田先生の説教の序文の中で、こんな言葉がありました。「私の信じる神様はこういう方です、とはっきりと紹介できるようになりました」とありましたが、これが言語化です。「はっきりと紹介できるようになりました」、はっきりと伝えられるようになりました、ということです。

弟子訓練をしていての、受講者の方々の変化、成長の印は、信仰と言ってもなかなか、もやもやしていて、言葉にできなかったのが、自分の言葉で、信仰について、神について、あるいはイエス・キリストや聖書について、などなどが、わかってくるので、それが言葉で表現できるようになる事です。弟子訓練を受けた人すべてがというのではありませんが、奥田先生が言われたように、「私の信じる神様はこういう方です」と言えるようになるのです。これが弟子化された人の言語化です。自分たちが信じている神について、イエス様について、信仰やその恵みについて、その人生の在り方について、明確になってくる、確信が持てるようになってくる。その結果として、言語化が出来るようになる、はっきりと自分の言葉で、自分の信じていることを、明確に相手に伝えることが出来るようになるのです。

このような変化が、二人の方々だけではなく、他の方々にも見られるのです。本当です。訓練の途中での、その方々が語る言葉には、確信があり、喜びがあり、そして明確で、分かり易く、生き生きとしていて、こちらに言いたいことがビンビン伝わってくるのです。これらの方々が放つ言葉、言語化された言葉にどれほど、励まされ、教えられたかわかりません。私自身が、思わず喜びに心が満たされ、笑顔になるのです。力を貰うのです。そして、また来週、一緒に聖書を学びたい、と思うのです。聖書の真理を、自分の言葉で、表現し、伝えられる人つくり、それもまた弟子訓練の恵みです。

「私たちにすべてのものを与えて楽しませてくださる神に望みを置き」

『Tテモテ6章17節』

「喜びがなければ、キリスト教ではない」と、世界的な名説教者であり、牧会者、著作者であるロイド・ジョーンズという方が言ってという事を、説教で紹介しましたが、この言葉に心からアーメンと申し上げたい。皆さん、喜んでいますか。聖書はそれこそ「いつも喜んでいなさい(Tテサロニケ5章16節)」と言っているように、これは命令です。喜んでいる事は命令です。でも命令であっても、難しいとすぐ思うでしょうね。ヒントを上げます。皆さん、『少女ポリアンナ』という作品をご存じですか。テレビのアニメにもなり、大好評を得た作品です。そのポリアンナから多くの人は何を学んだかというと「良かった探し」です。この言葉は、牧師であった父親の遺言の言葉です。その父の遺言を、ポリアンナは、ともすれば、寂しい境遇の中で悲しみに沈んでしまう中、良かった捜しをします。すると、どうなったか、あのポリアンナ誕生したんです。私達に当てはめてみるならどうなるでしょうか。主の恵み探し、感謝探し、喜び探しになるでしょうか。一日の歩みの中で、このような主の恵みを見出しながら歩むとき、恵みと感謝と喜びが、実に日々の生活の中に溢れていることを発見するのではないでしょうか。恵み探し、感謝探し、喜び探しを、一日のどこかで、あるいは、寝る前にしてみてはどうでしょうか。

それと共に、神は楽しみを与える神であることを皆さん、知っていましたか。神は楽しみを与えて下さる方です。第一テモテの中で、パウロは「私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き(5:17)」と、進めています。多くの人は富に楽しみの望みを置きますが、主を知る私達に、パウロはそうではなく、神に望みを置け!と言っています。私自身、このお方に望みを置いた時から、人生、楽しい!と思うようになりました。どうして、神が楽しみを与えて下さるからです。いろんなことが楽しくなりました。一番の楽しみは、牧師という働きの楽しみです。本当に、牧会の楽しみを知る者にさせて頂きました。かつては違いました。牧師とは、牧会とは悲しく、辛く、苦しく、楽しくないもののように感じていました。そして、実に私自身と同じように、牧会とは苦しいものと思っている先生方も多くいます。アメリカ等、大半の牧師が、その牧会から離れて行くと言います。楽しくないからでしょうね。

牧会は確かに多くの難しいこと、苦しいことがあります。それはどんな仕事であっても同じです。牧会だけが特別に苦しい、つらい仕事ではありません.もっと辛い仕事をしている方々は実に多い。そんな中、神は、牧会の働きの中には、いろいろなことがあるけれども、その中にあって「楽しみを与えて下さる」のです。神は楽しみを与えて下さる神です。皆さんと共に歩むことは、いろいろなことがあっても楽しきものに変えて下さるのです。私を元気にし、楽しませてくれる一つは、弟子訓練であったり、聖研祈祷会であったりします。楽しい! 元気をもらえる! 疲れていても、疲れがどこかに消えてしまう!なぜ楽しいからです。みんなと一緒に、聖書が学べる! こんな楽しいことはありません。

その背後には「すべてのものを与えて楽しませてくださる神の恵み」があるからです。このお方に、いつも頼りながら、期待しながら、希望しながら、歩むとき、人生、難しいこと沢山あるが、楽しい!となる。皆さん、楽しみを与えて下さる神に、もっと望みを置き、信頼し、期待してみてください。「神は、全てのものを与えて楽しみを与えて下さる神です」 

 
麻溝台キリスト教会 月報「まな」 (6月号)

都合により、6月号は休刊させていただいておりますことをご了承願います。

麻溝台キリスト教会 月報「まな」 (5月号)
新芽のように・・・

「わたしはあなたを野原の新芽のように育て挙げた。あなたは成長し、」

(エゼキエル16:7)

ある木曜日、久しぶりに外に出た。支払いの為に郵便局まで車を走らせていた時、澄み切った青空がまぶしいほど輝いて見えた。そして、木漏れ日の森の木々の緑がこれまた美しい。こんな景色、何か何十年ぶりに見る光景のように感じた。あの北海道に行った最初の牧師会に行く途中で見た光景を思い出した。新緑に輝く何とも言えない生命に満ち溢れた木々の美しさが私の全身に感動を与えた。その日の午後の光景もそれに似た美しさが私の心を打った。郵便局での用を済ませ、仕事に向かうにはあまりにももったいない神のプレゼントに心を動かされて、車を相模原公園に走らせた。創造者の美しさが、私の心を満たし、疲れし身体に癒しを与えた。緑に囲まれた公園の上を見上げると、澄み切った空、その輝く空に見慣れぬ白色の飛行機が北に向かって飛んでいた。その珍しい光景を写真にと思ったが、飛行機は緑に輝く木々の中に吸い込まれていった。埼玉にある入間基地に行くのだろう。わずかばかりの時間だったが、幸せな時間だった。

 いにしえの聖徒たちも、外に出て、神の造られた天地を見上げ、神を讃美した。『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる(詩篇19篇1節)』と。宗教改革者のマルチ・ルターも、多忙な日々に、戦いの日々の中、外に出て新鮮な空気を吸いながら、神との交わりを楽しみ、霊的な疲れを癒やし、新たな力を得た。素晴らしき信仰の勇者たちの伝記を読むとき、彼らもまた、しばし外に出た。そして、神の創造された自然の恵みの中で、疲れを癒やし、主との交わりを楽しみ、新たな力を得た。かくこのように多くの信仰の勇士たちは『外に出よ!』と、疲れし者たちに、戦いのただ中にある者達に、悩み多き信仰の友たちに勧めて来た。そんな信仰の先輩たちの声が聞こえるかのように、私も、しばしの間、外に出た。そして、今回のこの「マナ」に何を書くべきかを思い悩んでいた者に、このことを書かせた。愛する兄弟姉妹、外に出ましょう。しばし忙しき手を休め、神の造られし自然の中で、創造者の御手に触れてはみてください。

 新緑の美しさは、同時にいのちの躍動を覚えさせる。エゼキエルを通して、主はかく言われた。「わたしはあなたを野原の新芽のように育て挙げた。あなたは成長し、大きくなり、十分に成熟し・・・(エゼキエル16:7)」と。イスラエルを、野原の新芽のように成長させたのは誰か、大きくしたのは誰か、主です。そして、私達も、同じく命に輝く新芽のように成長させたのは誰か、主です。新芽のように、美しく輝きながら、その信仰の成長を見るのは、何と心の目に麗しいことでしょうか。そういえば、相模原公園のヒバの木に小さな小さな白い花が沢山咲いていた。緑の葉に覆われたヒバの木に咲く白い花は本当に美しかった。小さかったが私の心を感動させた。信仰の新芽や花も、どんなに小さくても、それは美しい。私の心に感動を与える。神への賛美と感謝を与える。

 主は、愛する教会の皆さんの中に、新芽に似た信仰の成長のしるしの花を見させて下さっている。愛する兄弟姉妹の皆さん、皆さんの中に働く、創造者の御手と、十字架に死んで三日目によみがえりし復活の主のいのちが働いています。新芽はやがて、何かの実を結びます。それがまた私の楽しみです。いのちのみ言葉に育まれて下さい。主に頼り、聖霊と共に歩んで下さい。そして、神の家族の兄弟姉妹と共に歩んで下さい。

 

   

 

牧師の福音トレインコーナー 

このコーナーは教会員の方のためのデボーションコーナです。
本多牧師による日々の聖書黙想日誌や教会の最新情報紙「まな」掲載文等が載せられております。
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